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​『北海道で

 映画を

 作るということ』

作品解説 伊藤隆介

​ 美術・映像作家/北海道教育大学教授

その1
“北海道で映画制作は可能か?という実感”

 

来る3月9日(土)に、吉雄孝紀監督と北海道教育大学岩見沢校がジョイントした短篇映画『町議・房子の逃走』がいよいよ公開されます。
是非々々ご覧いただきたいので、その背景や魅力について連投させてください。

10年くらい前、山田洋次監督が文化の継承を目標に京都の大学生たちと映画を制作したということが、テレビで話題になりました。いい話なんですが、一方で複雑な気分になったものです。いや、端的に言うと「ケッ!」とヒガんだのでした。(関係者の方、ごめんなさい。)

というのも、京都や東京のように映画が産業として根付いている土地ならともかく、北海道のような「地方」では映画製作自体が成り立たっていないという現実が(軽〜く50年くらいは)ある。
いや、その時代々々でインデペンデントな才能は現れるんだけれども、全然キャリアは続かない。大人も学生も「継承」どころか永遠の自主映画状態で、自身の制作術を確立するのに精一杯。大概は長編を一本か、短編を数本作るのが関の山で30歳代でやめていく。
テレビドラマも北海道放送(HBC)が東芝日曜劇場『うちのホンカン』(倉本聰脚本)などを制作した1970年代は遠く、いまや地方局は助成金がつけば年に一本撮っているかどうか。それどころか、疲弊した地方経済で、ネットワークからの分配金(広告費)頼りでバラエティ番組の制作も難しそうな局もある。
「やる気」のある若いディレクターは、自治体や地元企業のPVなどを一部ドラマ仕立てにしたりしますが、量として続かないから「ごっこ」の域を出ない印象。

受け皿が容易に想定できないから、大学で(劇映画やドラマ制作スキルなどを含めた)映像教育を行ないながらも、結局、メディアリテラシー教育の意義ばかりが強くなる。
地元のテレビ制作会社(主に報道)への就職はもちろんあるけど、学生の夢に対して「本気でやるなら上京すれば?」と言う現実には寂しいものがあります。一方で、アニメーションや実験映画といった個人で可能な表現の分野では、北海道の若手作家たちは現在、なかなかの水準にあるわけですが。

まぁ昔は、ピッツバーグでリビング・デッド(いわゆる『ゾンビ』。最近はウォーキング・デッドとか呼ばれてるみたいですが。)を作り続けたジョージ・A・ロメロや、1980年代に『フェリスはある朝突然に』や『ホーム・アローン』でヒットを飛ばしたシカゴのジョン・ヒューズ一家、北海道より人口が少ないフィンランドのアキ・カリスマキ、スウェーデンの巨匠ロイ・アンダーソンみたいに、映画の中心地に背を向けてコンスタントに頑固に制作を続ける作家や、そういった映画製作シーンの登場を妄想してみたもの。
同床異夢とはいえ何人もの映像作家、行政マン、オーガナイザーたちによる映画祭やコンテスト、特区や公営スタジオ構想などの努力がありながら、なかなかそういう状況にならなかったというのがこの20年の実感です。
(そういう複雑なミッドエイジの心境だから、『カメラを止めるな!』なんて、いろいろな思いが去来して冒頭20分でギブアップ。気持ちに余裕のある若いときはトリュフォーの『アメリカの夜』とか森崎東の『ロケーション』なんて喜んで観てたものですが。)

そんな中で、勤め先の大学で非常勤講師を引き受けてくれている映像作家・吉雄孝紀さん(代表作『へのじぐち』『食器を洗う男』など。詳細は次回。)と、札幌のプロのテレビスタッフの皆さんが、学生と協働で、興行や放送に耐えるクオリティの作品を本気で作ってくれることになったのは嬉しいことでした。

その2

“吉雄孝紀という先生”

今回上映される2作品は、“北海道教育大学岩見沢校「映像特講Ⅰ」=ライト・オフィス提携作品”とクレジットされていますが、これについて解説します。

2作品の監督・脚本の吉雄孝紀さんは、北海道教育大学の岩見沢キャンパスで「映像特講Ⅰ」を担当されている講師でもあります。その吉雄先生は、北海道の映画史(が存在するとして)では伝説と言っていい人物です。
まぁ、起きたことや存在についての記録や伝承がなされず、ただ忘却されてゆく北海道では、「伝説」化はよくある現象ですが…。(近年はこのプロセスが加速度的に早くなり、北海道百年記念塔などは未だ存在するのに「伝説」化が決定されています。)

さて、その「伝説」ですが、20代での劇場映画監督デビューなどあり得なかった1990年ころ、吉雄先生は映画『へのじぐち』で弱冠23歳、しかも北海道から35mm映画デビューして話題になりました。黒沢清28歳、塚本晋也29歳で若いと言われた1980-90年代に、石井聰亙(現在の石井岳龍監督)の『高校大パニック』の共同監督21歳を別格としても、若く監督デビューしたトップ3には入るのではないかと思います。
ちなみに、HDビデオで劇場映画が撮れ、単館上映も可能な現在と違って、当時の劇場映画といえば35mmフィルムを指し、フィルム代や現像費だけでも数百万円の予算が必要でした。ちなみにアマチュア用と言われる8mmフィルムでも3分ちょっとの撮影コストは2千円ほどで、1時間の劇映画(劇場映画に非ず)ならフィルム代は10万円近く掛かったもの。
映画館も東宝、東映、松竹などのメジャー系が大部分で敷居が高く、映画青年にとって映画館で自作を上映するのは現在のシネコンで自主映画を上映するよりハードルが高く、ほとんど「はやぶさ2」がリュウグウに着陸して帰還するような可能性でした。
もちろん、『へのじぐち』も大学生が一人で実現できるプロジェクトではなく、その才能を当時の大人たちが様々に支援する、あるいは支援できた、北海道が熱かった時代のエポックとも言えます。

その後も吉雄先生は、インディーズ系短編の劇場上映として東京で話題になった『食器を洗う男』、テレビでは北海道道文化放送(UHB)で鈴井貴之氏や増沢望氏とコラボした『愛の狩人劇場』シリーズ(その後の『水曜どうでしょう』の原型ともいえるフォーマットを発明)、何本もの受賞テレビ番組を手掛けます。プロの「作家」のニーズが極端に少ない北海道では、稀有な存在といえます。
また、2000年から5年間、「屋台劇場まるバ会館」を主宰、多くのインディーズ映画、実験映画、アートアニメを紹介、そこに道外から映画作家が訪れ、北海道の若者と語らう「場」となりました。映像に限らず、現在30〜40歳代で活躍する北海道出身のクリエイターやデザイナーで「まるバ会館」の常連は多いです。
近年は北海道教育大学岩見沢キャンパスの講義「映像特講Ⅰ」の講師をご担当いただいていますが、技術的な指導はもとより「北海道における映像作家の先輩」として、表現することの喜びと共に、表現活動を継続することの困難さについても実感を込めて伝えてもらっています。

一般に、大学などで行われる劇映画の制作実習というのは、短期間で学生に企画、脚本を作らせ、撮影までを行う、言ってみれば体験重視の(しばしば完成作品の質は問わない)「ごっこ」形式となります。
昔の学生たちは、実習で16mmフィルム(テレビドラマやアニメなどで使用するフォーマット)を扱うこと自体に「プロ」に近づいたような感動(錯覚)があったものですが、プロとアマの使用機材の性能が近づいた現在は、その「ありがたみ」も小さくなりました。一方で、今の学生さんは目が肥えているから、素人ばかりでショボい予算での「ごっこ」なんてのは単なる学校の課題であって、テンション的にはアガらないというパラドックスがあるのです。
その中で、吉雄先生は毎回ちょっと驚くほどの熱意で学生と協働を試みています。いまや親ほどの世代になった吉雄孝紀という作家が、学生との対話をもとにほとんど自分の「作品」を作るような(非常に)高度なレベルの脚本を執筆し、妥協なく、粘り強く演出や撮影を決めてみせるうちに、学生たちの視線や所作がシャープなものに変わってゆくのを見るのは感動的です。
われわれ芸術系の教員はもちろん真摯に「教育すること」について向き合っているつもりですが、学生たちにとっては「本気で作品に向かっている作家」を近くで目撃することは、意外に稀な経験なのかもしれません。言い換えれば、大人が本気になるのを見せないで、子どもたちにアツくなれというのは無理だということです。
一昨年に制作した超能力ドラマ『視る姉』からは、吉雄先生に賛同する撮影や照明などのプロスタッフが参集、各部署で学生とタッグを組んで本格的な映画制作を通した教育を行うという、新しい試みが始まりました。
『視る姉』は、北海道文化放送の同年の年末番組として放映されました。学生が協働した作品が、「プロのレベル」になったということです。(つづく)

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